レプリカントはいかにして人間になるのか?【ブレードランナー2049 完全ネタバレ】


アート・アンド・ソウル・オブ・ブレードランナー2049


今回はブレードランナー2049について書いてみたいと思います。

デッカードはレプリカントなのか否か?問題。

まずブレードランナー2049について書く前に前作においてファンの間で論争になっていた、デッカードはレプリカントなのか否か?問題について書いておきたいと思います。

この問題は前作の公開からディレクターズカット版が出るまでの間に起こった論争で、実はデッカードは人間ではなくレプリカントなのではないか?と解釈した人が多くいたことに端を発した論争なのですが、ディレクターズカット版でそう解釈できるシーン付け加えられ、リドリースコットが後にデッカードはレプリカントだと認めたことで決着がついた論争です。

ただリドリースコットが認めた後もこれが気に食わない人たちがいて、監督が認めたにも関わらずいやそうじゃないと認めない人たちも多くいたんですね。特にこの作品にかかわった脚本達はデッカードはレプリカントだとする結論に反対していて、そのことがブレードランナー2049において大きく意味をもってくるわけなんです。

どういうことか結論から言ってしまうと、実はブレードランナー2049ではデッカードがレプリカントではなく人間だと考えないとストーリーが成立しないのではないか?という構造になっていて、どうも脚本家たちによってデッカードはやはり人間だったと結論をひっくり返すために作られたのではないかという疑いがあるわけなんですね。


ブレードランナー2049では差別が二重構造になっている


ではなぜそういえるのか?なんですけど、それは物語の中で描かれる差別の問題とかかわってきます。

前作のブレードランナーにおいて描かれたのは人間からレプリカントに対する差別の問題でしたが、今作においてはこの差別の問題が二重構造になっています。今作では人間からレプリカントに対する差別に加え、レプリカントからAIに対する差別もあるんですね。

Kの恋人であるAIのジョイと娼婦のレプリカントが同期した後、娼婦のレプリカントがAIのジョイに対して「同期した時にあなたの中を覗いたけど空っぽだったわよ」と発言することから、どうもレプリカントがAIに対して差別意識を持っているらしいことがみてとれるわけです。

そしてこの差別の二重構造が二つの禁じられた恋愛物語を浮かび上がらせる効果を持っています。一つは人間とレプリカント(デッカードとレイチェル)の恋愛であり、もう一つはレプリカントとAI(Kとジョイ)の恋愛です。いつの世でも差別する側とされる側の恋愛はタブーですからね。

そしてラストシーンではこの二つの恋愛物語は全く正反対の結末に行きつくわけなんですが、ラストシーンでこの二つの恋愛物語が完全な対比をなすためには、どうしてもデッカードが人間でなくてはならないわけなんですね。

もしデッカードがレプリカントだと差別によって禁じられた恋愛でも何でもなくなってしまうので二つの恋愛が対比でもなんでもなくなってしまうんですね。この映画のラストシーンは二組の差別によって禁じられた恋愛の結末を描いているわけですから。


デッカードとレイチェルの間に生まれた子供にはどんな意味があるのか?


ではこの映画で描かれている差別とはいったい何なのか?ですが、それは片方がもう片方を感情がないと考えていることです。つまり人間はレプリカントには感情がないと考えているし、レプリカントはAIには感情がないと考えているというわけですね。

感情がないから相手は奴隷のようなものだし、感情がないから相手と恋愛関係など成り立つはずがないというわけで、人間とレプリカントの恋愛もレプリカントとAIの恋愛も本当なら起こるはずのない恋愛なわけです。もし恋愛が成り立つなら相手に感情があることになってしまうというわけで、相手に感情があるとすると差別構造が崩れてしまうわけですね。

フレイザ率いる「レプリカント解放運動」がデッカードとレイチェルとの間に生まれた子供を守ろうとするのも、この子供が自分たちレプリカントに感情があることを証明する存在だからです。デッカード(人間)とレイチェル(レプリカント)との間に生まれた子供アナは、もしレプリカントに感情があるのなら、レプリカントはもはや人間なのではないか?という問題を浮上させる存在なんですね。

アナはレプリカントのために記憶を作る作家をしていて、とても感情が豊かな人間として描かれています。自身に感情がなければ記憶を創作することなどできませんから、アナが感情を持っている可能性は高いわけです。だとするとアナは人間なのかレプリカントなのか?

つまりレプリカント(レイチェル)から生まれた子がもし感情持っているとするなら、この子は人間側にとっては存在してもらっては困る存在なわけですね。


Kは如何にして感情を得たのか?


さてこの物語ではデッカードとレイチェルとの間に生まれた子供以外にも、もう一人最後に感情を獲得したレプリカントがいます(アナは人間なのかレプリカントなのかわからないけど)。それがこの物語の主人公のKです。Kもまた物語の最後で感情を獲得したように描かれています。

一般的にこの映画の評論ではKが最後に感情を獲得しえたのは殺すように命じられたデッカードの命を逆に身を挺して守り、娘アナの元へ送り届けてやったことによるものだと結論付けているものが多いです。

つまりKは自己犠牲の精神や利他的な精神を発揮したことにより人間としての感情を獲得しえたのだというわけですね。誰かの為に何かをしてあげることは人間にしかできないことであり、こうした他者への思いやりこそが感情の源泉だというわけなのですが、でも本当にそうでしょうか?

私はKが感情を獲得しえた理由は全く別にあると思います。それは全くもって利己的な理由であり、利己的であるからこそKは感情を獲得しえたのだと考えます。

ではその利己的な理由とは何か?

その答えは復讐です。

Kは追跡してきたウォレス社のレプカントによって、恋人のAIジョイが入っている端末を踏みつぶされ殺されてしまいます。まさにこの瞬間、Kの心に復讐心が芽生え人間の感情が宿ったわけです。

Kがデッカードを連れ去ったウォレス社のレプカントを追跡したのはデッカードを助けるためでも何でもなく、自分の恋人を殺したウォレス社のレプカントを殺して復讐するためだったわけですね。

それはKがデッカードを連れ去ったウォレス社のレプカントを殺すシーンで目に憎しみが宿っていることからもわかります。冒頭で逃亡したレプリカントを殺す時とは全く違う表情を浮かべていますからね。


ブレードランナー2049のラストシーンの意味


そのように考えるとこの映画のラストシーンは二人の男の悲しい対比ということになります。片方は愛する女性との間に生まれた娘と再会しようとしていて、もう片方は愛する女性を殺されその復讐をはたし、その復讐によって負った傷によって死に行こうとしているわけです。

二つの禁じられた恋愛は全く正反対の結末を迎えるわけで、とても悲しいラストシーンだと言えますね。この映画に登場する人間(デッカード、アナ?)、レプリカント(K、レイチェル)そしてAI(ジョイ)達全てが感情を持っていたからこそ、このような悲しいラストになってしまったというわけですね。


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