風の谷のナウシカを考察【なぜナウシカは青き衣を纏いて金色の野に降り立つのか?】


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今回は風の谷のナウシカについて考察してみたいと思います。考察のテーマは、なぜナウシカは青き衣をまといて金色の野に降りたつのか?です。

風の谷のナウシカの秀逸な設定をおさらい


まずこのテーマについて語る前にこの物語の秀逸な設定についておさらいしておきましょう。というのもナウシカが青き衣をまといて金色の野に降り立つにいたるのはこの設定があってこそだからです。

で、その設定とはなにかというとそれは人間と腐海との関係のことです。

ナウシカは独自の研究によって綺麗な水で育てた腐海の植物は毒を出さないことを発見します。さらに実際に腐海の底に行き腐海が土壌や水を浄化しているという事実を突き止めます。

つまり腐海は天然のろ過装置であり、人間は腐海の存在なしには綺麗な水を得ることが出来ず生きていくことができないというのが、この物語の設定になっているというわけです。

そしてナウシカはこの事実を発見したことにより、この事実を他の人たち(他国の人にも)に伝える使命をおびることとなります。この使命をおびた結果、選ばれし者として青き衣をまといて金色の野に降り立つことになるわけですね。

他国の人たちが巨神兵を手に入れたことによって事態が動いた


てナウシカが発見したこの事実によって人間は腐海と共に共存するしか道がなくなったわけですが、この事実を知らない他国の人たちは全く逆の選択をしようとします。

というのもこの時、他国では腐海を焼き払うための道具(巨神兵)手にしていたためです。

腐海が天然のろ過装置であるという事実を知らない他国の人たちにとって腐海はただ毒を出す森にすぎないので、巨神兵を使って腐海を焼き払い安心して暮らせる土地を取り戻すという希望にすがったわけです。

そしてその結果、人間は腐海を制圧するか腐海と共存するかの二者択一を迫られることとなります。もちろん腐海が天然のろ過装置である以上、人間には腐海と共存する以外に道はないわけですが、迫りくるオームの大軍を前に人間はこの二者択一をせまられたわけですね。

そしてナウシカは選ばれし者として選択したというわけです。腐海と共存すると(面白いのはナウシカが登場する前にもう一人の姫であるクシャナが巨神兵を使って腐海を制圧するという選択をして否定されるところ。クシャナは選ばれし者ではなかった)。

風の谷のナウシカには隠された裏のテーマがある


さてここまでが風の谷のナウシカの秀逸な設定なのですが、では次にこの物語が描いているテーマとはなんでしょうか?

表向きのテーマは自然を大切にしようとか、人間は自然と共に生きるしかないといった感じになるかと思いますが、じつは風の谷のナウシカには隠された裏のテーマとでも言うべきものがあります。

そしてこの隠された裏のテーマがナウシカを青き衣をまといて金色の野に降りたたせることになることになるわけなんですが、ではその隠された裏のテーマとはいったいなんでしょうか?

答えを先に書くとその答えはズバリ!チャクラの覚醒ということになります。そうじつは風の谷のナウシカはチャクラが覚醒していく過程を描いた物語なのです。

いきなりチャクラなどという言葉が出てきて面食らった人もいると思いますが、じつのところこれがそう無理やりなこじつけでもないんですね。というのもこの映画の随所にインド哲学の影響が垣間見えたりするからです。

そしてそのインド哲学の影響が最も表れているキャラクターがあの巨大な虫オーム(王蟲)なんですね。

オーム(王蟲)とはいったい何者なのか?


ではオームとはいったい何者なのでしょうか?

設定ではオームは腐海を守っている存在として描かれます。人間が腐海を焼こうとするとオームがやってきて凶暴に人間を追い払うわけですね。しかしその反面オームには何やら不思議な癒しの力があって、腐海と共存しようとする人間にはとても優しく振舞い、時に見守っているような姿を見せることもあります。

オームには二面性があって、人間に対して時に悪魔の様に振舞ったかと思えば今度は神の如く振舞ったりもします。つまりオームは人間を試しジャッジする存在なわけですね。そして人間を導く存在であるといえます。

オームという名前の由来とは何なのか?


次にオームというネーミングについて考えてみましょう。

このオームという名前ですがオームといえば例の宗教団体(若い人はもう知らないか)を思い出す人も多いでしょう。おそらくその推測は正しくてこの二つのオームは同じものを指していると思われます。

ではそのオームとは何なのか?なんですが、これはインドのマントラ(聖なる音)のことなんですね。

そして面白いのがこのマントラはチャクラにそれぞれ対応した音があるということです。例えば第1チャクラはラーム、第2チャクラはヴァ―ムといった具合にです。で、オームはどのチャクラかというと第6チャクラに対応しているんですね。

つまりオームは第6チャクラを司どる存在だというわけです。

第6チャクラは真実を見通す目


ではその第6チャクラとはいったい何なのか?なんですが、第6チャクラのシンボルが目であるということは一般によく知られてる話です。いわゆる真実を見通す目というやつですね。

そして虫のオームも目が非常に特徴的なキャラクターです。オームは時に人間を監視しているようであり(赤い目)、時に見守っているようでもあります(青い目)。いうなればオームは大地を走り回る目であるということができますね。

特に印象的なシーンは腐海の底の湖でナウシカとオームが対峙するシーンです。オームが腐海に侵入してきた人間の本質をその目ですぐに見抜いてしまうということがよくわかるシーンですね。

次に第6チャクラの意味なんですが、その意味は二元性の対立の超越です。つまり二元性の対立を超越した統合のヴィジョンを描き出すことが第6チャクラの働きであるとされているんですね。

ではこの二元性とはいったいなんなのか?というと、それは自分と目の前の現実、この二元性です。

いわば自分と目の前の現実とのギャップのことですね。人間は自分の目の前の現実となかなか折り合いがつかない、この問題をどうするかが第6チャクラの領域における課題であるというわけです。

これをナウシカの話と重ねると、人間は腐海(折り合えない現実)とどう折り合いをつけるのか?という問題になって、その問題を人間に問うためにオームが人間の前に立ちはだかるという構図が見えてくるというわけです。

ナウシカはなぜ青き衣をまとうのか?


次になぜナウシカは青き衣をまとっているのか?なんですが、これにもちゃんと意味があります。この青き衣の青は先ほどのチャクラの話でいうと、第5チャクラのシンボルカラーなんですね。

つまりナウシカは第5チャクラを司っているキャラクターであるというわけです。

では第5チャクラの意味するところは何かというと、その意味は浄化です。第5チャクラの働きとは精神の浄化によって自己を縛る思い込みから自由になることとされていて、ナウシカは世界を浄化する存在であり、またこの意味に沿うように振舞います。

ストーリーの上ではナウシカはペジテの人達に拘束されていますし、ペジテの人達は腐海を焼き払わなければならないという思い込みに捕らわれています。

ナウシカはこの思い込みから自由になる(ペジテの拘束から脱する)ことで、青き衣をまとうことになるというわけなんですね。

古き言い伝えは予言ではなかった


さてオームとナウシカがそれぞれ第6チャクラと第5チャクラを司っていることが分かってきたことで、いよいよこの物語の謎解きも核心に迫ってきたわけですが、ラストシーンの意味について語る前にもう一つ指摘しておかなければならない点があります。

それは目の見えないおばあさんが語るあの古き言い伝えについてです。

多くの人はこの古き言い伝えを予言だと思っていると思いますが実はそうではありません。古き言い伝えは予言でありナウシカの活躍によってこの予言が現実になったように見えるわけですがそうではないんですね。

ではその古き言い伝えを引用してみます。

その者青き衣をまといて金色の野に降り立つべし。

ポイントはこの文言の末尾の所です。末尾のところが「べし」になっているんですね。

「べし」とはつまり「しなければならない」という意味ですから、これが予言だとするとちょっと意味が違ってくるわけです。これが予言であれば末尾は「降り立つであろう」とかそんな感じになるはずなので、これは未来を予想したものではないのではないか?というわけですね。

つまりこの文言は予言というよりはどちらかというと手引きであると考える方が正しいのではないかというわけですね。世界を救いたければ青き衣をまとって金色の野に降り立たなければならないよというわけです。

もちろんナウシカが偶然にも古き言い伝えの手引き通りやったから、予言が現実になったんだといえなくもないですけどね・・・

ラストシーンで描かれている光景は当然アレです


さて、ではいよいよこの物語のラストシーンについて解説していきましょう。

まずナウシカがペジテの拘束から自由となって青き衣をまとい第5チャクラを司る存在(浄化する者)になります。そして第6チャクラを司る存在(二元性の対立を統合する者)であるオームと対峙することとなります。オームはナウシカに腐海を制圧するか腐海と共存するかの二者択一を迫ります。

そしてナウシカは腐海と共存することを選択します。しかし腐海と共存することを選択するためには一つ大きな試練がナウシカの前に立ちはだかることになります。

既にオームは風の谷に向かって暴走しており、ナウシカはオームの暴走を止めるためにオームの大軍の前に身を投げ出さざるえない状況にさらされてしまっているわけですね。

つまり第6チャクラの試練を突破するためには自分(自我)を捨てなければならない。目の前の現実と調和することを選択するのであれば、自分(自我)を捨て目の前の現実に自分の身を投げ出さなくてはならないというわけですね。

そしてナウシカはそうします。そして死んでしまうわけです。

しかしナウシカが自分の身を投げ出したことで奇跡が起こります。オーム達の怒りが静まり、死んだとおもわれたナウシカはオーム達の手によって生き返ります。

ではこのラストシーンで描かれている光景とはいったいなんなのでしょうか?

答えを先に書くとそれは第7チャクラの光景であるとなります。つまり第6チャクラの試練(二元性の対立を統合する)を突破したナウシカは無事、第7チャクラの領域に達したというわけです。

第7チャクラの領域とは「分離のない万物が完全に一つに統合された状態」であるとされていて、ラストシーンではこの光景が描かれているわけですね。

そしてこのことを端的に表しているシーンがあります。それはナウシカがオームから伸びる無数の金色の触手の上に立っているシーンです。

この時オームから伸びる無数の金色の触手はドーム状の形を形成しています。これがじつは第7チャクラのシンボルを表していて、ナウシカが第7チャクラの領域に達したことを表しているんですね。

第7チャクラのシンボルは「1000枚の水晶色の花弁を持つ蓮の花」であるとされていて、オームからドーム状に伸びる無数の金色の触手がこの「1000枚の水晶色の花弁を持つ蓮の花」の形をしていて、第7チャクラの開花を表しているというわけです。

そしてナウシカがこの「1000枚の水晶色の花弁を持つ蓮の花」の上に立つことで、万物が完全に一つに統合されたことを表しているというわけですね。

というわけで以上が「なぜナウシカは青き衣をまといて金色の野に降りたつのか?」についての考察です。こうやって分析してみるとこの物語はかなり綿密にプロットが組まれていることがよくわかりますね。

最初に観た時は全く意味が分からなかったのですが、こうやってひも解いてみるととても良く出来たストーリーです(宮崎駿自身はラストシーンがやや宗教的になってしまったことを後悔しているらしい)。

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